SEAプロジェクト プレイベント
日本は東南アジアの現代美術にいかに関わってきたのか? シンポジウム パネルディスカッション(3/4)

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東南アジアから招いた新しい世代のキュレーター陣も観客席から発言をした。マイクを握るヴェラ・メイと隣で見つめるオン・ジョリーン

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観客席からの質問に答えるグレース・サンボーと隣に座るマーヴ・エスピナ

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ヴェラ・メイ

登壇者の皆さん、ありがとうございました。今日の議論では、公的機関の役割が重要なポイントだと感じたのですが、特に後小路さんに基本的な質問をしたいと思います。今までそして現在も、東南アジアの美術を紹介するという展覧会が日本で開催されていますが、日本の一般の観客は、東南アジアとの関係をどのように考えていると思いますか。紹介されている国外の美術作品そして実践は、日本の美術史の延長または一部として捉えられているとお考えですか。

なぜこのような質問をしたかというと、日本の存在が東南アジア域内の美術史に様々なかたちで発現していると私は思うからです。今考えているのは、特にカンボジアの近代史についてなのですが、1950年代にプノンペンの王立美術大学(Royal University of Fine Arts)で「スズキさん」というアーティストが美術を教えていたことや、日本政府が今なおプノンペンの都市開発事業に関与しているといった事実が、カンボジアのアーティストの実践に影響を与えていることは間違いないのです。他の地域でも似た現象が起きている(いた)と想像しますが、これらを踏まえて日本の一般の人たちが、自国の美術史に対し、東南アジアの美術史をどのように見ているのか、ということに単純に興味があります。

もうひとつ重要だと感じたのは、後小路さんがおっしゃった、西洋の美術史とアジアの美術史は異なるという点です。私自身の研究からも、日本の歴史と美術史は欧米のパラダイムや歴史よりも東南アジアのそれにより近いのではないかと考えています。

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後小路

まず、日本の一般の人が東南アジアの美術をどのように受けとめ、かかわってきたのかというのは、発表で私も言及しましたが、1980年代はやはりすごくエキゾチックなものとして、珍しいものとして見ていました。その後、日本で紹介される作品自体も変わってきて、同じ時代を生きる隣国の人たちがどのように、何を悩んだり、苦しんだり、あるいは喜んだりしているのかという、そういう同時代の隣人の表現として受けとめるようになってきたと思います。みんながそういうふうになったわけではないですが、そういう態度は多少なりとも育まれてきたと思います。

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片岡

ありがとうございました。次はジョリーンから質問をどうぞ。

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オン・
ジョリーン

私からも後小路さんへ質問したいと思います。先ほど発表のなかで、「福岡アジア美術トリエンナーレ」の前身である「アジア美術展」の頃、参加作家は各国から選ばれ、さらに彼らとの接点(またはコンタクト・ポイント)は、相手側の国立機関や公立の組織に属しているキュレーターたちだったとお話されましたが、これは福岡市美術館の方針として、意図的にそうしたのでしょうか。つまり、当時ナショナルアイデンティティの形成がアジア美術における主要な関心事のひとつだったため、戦略として国立機関所属のキュレーターをコンタクト・ポイントにした、ということなのでしょうか。一般的にいうと、ナショナルアイデンティティというものが何らかのかたちで形成されると、それは瞬く間に一般市民に課されるようになります。そこで、出現するようになるのは、その[国が定めた]主要なナラティヴに対しての反発や挑戦的な態度であり、それらは美術の文脈においてはしばしば起こることだと思います。

『ニューヨーク・タイムズ』の記者がこのようなことを書いています。「私は、国の上層部の不正や、これまでに取材した多くの人々の生活を巻き込んだ汚職・買収に失望しました。いまや、私にとっての東南アジアは、素晴らしい人々と悪質な政府、寛大さに溢れている一方、不正や汚職の多くが無罪放免となる悲惨な状態が存在する場所となりました」(*1) 。私がお聞きしたいのは、つまり、このような課題をはらむナショナルアイデンティティの諸問題を考えたとき、どのような人物をコンタクトパーソンとして参照することができるのか、ということです。

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後小路

極端に単純化するとそういうことになる部分もあると思いますが、例えば最初、インドネシアはアーティストのグループがパートナーでしたが、やはり税関というか、作品をその国から出して運ぶということで、民間の人にはなかなかそれができないという状況がありました。また、当時は情報が非常に少なかったものですから、まず日本にあるその国の大使館に行って調査のサポートをお願いし、どういうところに行ったらいいのかということから始めて、それぞれの国に行くと、今度は現地の日本大使館に行って、どこに行ったらいいのかと……。まあ、政府ベースに頼ってやらざるを得なかった状況はあったと思います。そのために、ナショナルアイデンティティが問題になったとは私は思っていないですが、当時ナショナルアイデンティティの問題は、政府お抱え的な、政府系のアーティストだけの問題ではなかったと思います。

それから、我々も各国の調査を積み重ねて、アーティストと直接話をし、作家を選ぶようになって、展覧会に出品する作品も随分変わってきた。その時代の切実な問題を反映している作品を選べるようになりましたが、やはりそこに到達するまでには時間がかかったということですね。ですから、そこでナショナルアイデンティティが問題だった、批判されたというよりは、いきなり今日的な同時代の問題に入っていったという感じがしています。

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古市

今の後小路さんの返答にちょっと補足させていただくと、多分、お話しになったような80年代の状況への応答として、「美術前線北上中―東南アジアのニューアート」展(New Art from Southeast Asia、1992年)があって、自分たちの目で見て、自分たちで選んで展覧会をつくるという流れになっていくわけです。

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「美術前線北上中―東南アジアのニューアート」展会場風景

ナショナルアイデンティティの問題についても、当時、後小路さんがそのことを強調されて、私はそれにすごく疑問があった。東南アジアの作家が、本当にナショナルアイデンティティだけを考えて作品をつくっているんだろうか、と。それに対する応答としても、「美術前線北上中」展があったわけです。つまり、先程の質問にもかかわるのですが、どう語っていくかというときに、ひとつのラインしかないように見えてしまい、それに対するいろんなオルタナティヴがあるというのが見えないんですね。日本で東南アジアの美術を研究している人はだれかというと、20年たっても後小路さんの名前しか出てこない。そうすると、後小路さんが――これは批判しているわけではありません――おっしゃったことが「正論」となってしまう日本の状況についても、やはり私たちはもう少し考えて、「いやいや、そうじゃないかも、いろんなパターンがあるのでは」ということを提示していく――そういう努力も必要なのではないかと当時思ったわけです。

私たちがずっと活動していて、次世代のキュレーターが出てきている現在でも、例えば、シンガポールで話をすると後小路さんの名前しか出てこないという状況は、学術的な部分がやはりそれに追いついていないという日本における問題のひとつだと思います。

パネルディスカッション(4/4)へ続く

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