SEAプロジェクト プレイベント
日本は東南アジアの現代美術にいかに関わってきたのか? シンポジウム パネルディスカッション(1/4)
2017年に大規模な東南アジアの展覧会を開催するにあたり、近現代美術の分野において、日本がどのように東南アジアにかかわってきたのかということを一度おさらいしてみる必要があると強く思い、本シンポジウムを開催するに至りました。本日お話しいただくことを踏まえて、それらの蓄積の上に立って次の展覧会づくりを進めていきたいと考えています。
東南アジアの美術に関する状況を見てみると、2015年11月にシンガポールのナショナル・ギャラリー・シンガポールがオープンし、東南アジアを中心にしたコレクションの常設展や大規模な企画展などが開催されていて、アジア域内での活動が美術館レベルで徐々に始まる機運が高まっています。古市さんの発表でも、90年代に日本とオーストラリアが牽引するかたちで、東南アジア、もしくはアジアというものを見つめてきたという話がありましたが、そのことに、どのような意義があり、これからいかに日本の立ち位置を見出すことができるのかを議論したいと思っています。
後小路さんは最も早い段階でアジア美術に携わったキュレーターのおひとりですが、途中でも何度かコメントされていたように、日本が東南アジア、もしくはアジア展を開催することにどのような意味があったとお考えでしょうか。また、展覧会づくりの過程で経験された困難など、お聞かせいただけますでしょうか。
私が学芸員をしていたのは25年間で、その間に状況も変わってきましたので一律には言えないことですが……。90年代に、それまでの蓄積を踏まえて、福岡アジア美術館開館へ向けて活動を始めたときには、当時、日本はお金持ちだったので、豊富なお金で、豊富な日本の資金で日本の観客に向けて展覧会をつくっているということを批判されました。あの頃そのような批判は常にあって、国際交流基金が実施していたシンポジウムにおいても同様の批判がありました。でも、日本の自治体が美術館で展覧会をやるということは、どうしても日本の観客に向けて、日本のお金でというところは避けられないし、それは本当に悪いことかどうか、ということはずっと考えていました。悪いことがあるとすれば、日本だけが一方的にそういう力、そういう関係性を持っている。つまり、それぞれの国がそれぞれに自分のところで展覧会を自分の国の観衆に向けてやれるかたちがあればそれは問題にならないわけです。そのような、日本がある意味突出した立場にいて、展覧会を行い、また美術館をつくることへの反省は欠かせない視点だったと思います。
2005年に開催した「アジアのキュビスム―境界なき対話」展(Cubism in Asia: Unbounded Dialogues)の後に、韓国とシンガポールが、そのネットワークを引き継いで「アジアのリアリズム」(Realism in Asian Art、2010年)という展覧会を開催しましたが、それには日本が参加していなかった。韓国でその理由を聞いたら、日本はどこも引き受けなかったと知り、日本のプレゼンスがどんどん薄れてきている感じがしました。今のシンガポールの話も、とても立派な国立美術館ができて、90年代に私がかかわっていた頃の日本が一方的にヘゲモニーを握っているという状況とは違う。自治体の場合は展覧会を外国に持っていくことは非常に困難なので、共同で展覧会をつくることはとても意味があるし、そういうことが可能になったのも国際交流基金の功績だと思いますけど、対等にできる時代になっているのではないかなという気はします。
同じ質問を古市さんにも伺いたいと思います。国際交流基金がかかわったアジア関連の展覧会のほぼ全てを手がけてこられて、事業全体の構造において、戦略的に政策提言型の仕事をされてこられたと改めて思いました。そのなかで、日本の立ち位置も含めて、どのような変化を観察されてきたかを聞かせていただけますでしょうか。
まず、このシンポジウムのタイトルにもある「日本としてどうかかわってきたか」という感覚を日本の人たちが持たないようになるのが一番いいというふうに思っています。アジアの人たちと一緒に展覧会をつくったり、協力したりしていく。そのなかでどうやって日本の美術関係者とアジアの人々が、お互いによりよく知り合っていくかたちで地域全体としてできるのかな、というのがずっと思っていることです。今のアジアの状況において、日本の置かれているポジションというのは相対的には低くなっている。そのなかで「日本が」というような感覚で仕事をしないほうが多分いいのだろう、と思います。抽象的ですが、普通に「一緒に仕事しましょう」という感覚で展覧会をする環境づくりができるといい、と思っています。