調査:カンボジア 01

プノンペン

2016.01.24 - 01.26

シンガポールから移動したキュレトリアル・チームはカンボジアの首都プノンペンを訪れました。都市開発が進行しているなかで、市民にとってお寺のような役割も果たしている博物館、近代的なヴァン・モリヴァンの建築、集合住宅といった都市の側面と、それらを保存して次世代に継承しようとするアーティスト達の活動を目にしました。

  • ヴェラ・メイ
  • オン・ジョリーン
  • 近藤 健一
  • 片岡 真実
  • 米田 尚輝

カンボジア国立博物館

2016.01.24

片岡 真実

伝統的なクメール建築と言われる様式を使用した国立博物館。1919年にカンボジア博物館として開館し、カンボジア独立時に、国立プノンペン博物館となりました。クメール・ルージュ(Khmer Rouge)が支配していた1975-79年に閉館となりましたが、1979年に再開し、現在に至ります。クメール王朝期(802-1431)を中心に、ヒンドゥー美術、仏像彫刻などが、壁のない外気と同じ環境の空間に展示されています。いくつかの仏像の前には蓮の花や奉納金が供えられ、祈祷のための敷物が置かれている場所もあります。近代の美術館や博物館では、祈りの対象あるいは神々との媒介としてのオブジェクトが、美術・工芸作品として研究や鑑賞の対象となるのが通常ですが、ここではその両方の性格が残されたままであることを、大変興味深く思いました。博物館内ではお供え用の花も販売され、占い師が手相を読む場所もありました。

S21トゥール・スレン
虐殺犯罪博物館

2016.01.24

片岡 真実

人類史上、最悪の独裁者のひとり、ポル・ポト(Pol Pot)によるクメール・ルージュの記憶が、S21トゥール・スレン虐殺犯罪博物館(S-21 Tuol Sleng Genocide Museum)に濃厚に残されています。もともとは高等学校だった場所が、クメール・ルージュ支配時(1975-1979)には知識人・一部の公務員などの強制収容所となり、拘束、拷問、処刑などが行われました。独房だった部屋、収容所に入所した際の顔写真、山積みにされた骸骨などが生々しく展示されています。

ホワイト・ビルディング:アート・アーカイヴ&ライブラリー

2016.01.24

片岡 真実

1964年、24ヘクタールの土地に、長さ300メートルにわたって建てられた468戸の低家賃集合住宅です。建設直後は公務員、教員、近くにあった国立劇場のスタッフ、多くのアーティストなどが入居していました。6つのブロックは屋外階段で繋げられていて、建築当初は、真っ白く新しい集合住宅として建てられ、どこか、ル・コルビュジエ(Le Corbusier)がマルセイユ等に建てたユニテ・ダビタシオンを想起させるような写真が残されていますが、1975年のプノンペン陥落以降、市民が強制退去させられ、ホワイト・ビルディングも抜け殻になってしまいました。現在では、街に人々が戻った際に住み始めた低所得者層の人々の住居として使用され、周囲も小規模店舗や屋台で埋め尽くされています。ホワイト・ビルディング:アート・アーカイヴ&ライブラリー(White Building: Art Archive and Library)は、ホワイト・ビルディングの歴史を建築的観点から、あるいはコミュニティという視点からアーカイヴしようとしているプロジェクトです。プノンペンの現代アートプロジェクトとしては最も国際的にネットワークのあるサ・サ・アートプロジェクト(Sa Sa Art Projects)のひとつとして、2014年から進行しています。彼らのオフィスもホワイト・ビルディングの一室にあり、アーカイヴの他にアーティスト・イン・レジデンスなども行っています。訪問時に対応してくれたのは、アーティストのリノ・ヴース(Lyno Vuth)で、関連写真の収集から低所得者層のコミュニティで生まれ育った人々へのインタビュー、ドキュメンタリー映像の制作など、さまざまな方法で、変わっていく街や忘却・喪失される記憶をアーカイヴに留めようとしています。オンラインで見られる写真や映像には、この住宅で暮らすそれぞれの人生がおさめられています。

ボパナ視聴覚リソースセンター

2016.01.25

近藤 健一

2006年にカンボジアを代表する映画監督リティ・パン(Rithy Panh)によってフランス政府の助成を受けて共同設立された視聴覚資料施設。カンボジア国内に現存、もしくはカンボジアに関する、映画、TV映像、写真、音声など視聴覚資料を収集・デジタル化し、無償で一般公開することを目的にしています。カンボジアは1960-70年代には劇場公開映画の黄金期を迎えますが、クメール・ルージュ時代にそのほとんどが破壊され、この視聴覚資料の喪失の歴史が設立の背景にあります。映画の定期上映、写真やヴィデオ・インスタレーションなどの企画展開催、コンピュータ端末による収蔵資料の公開に加え、ワークショップやレクチャーなどを開催し、若手映像作家育成にも力を入れています。日本人スタッフも勤務し、過去には日本人研究員も調査を行うなど、日本との関係もあります。

サ・サ・バサック

2016.01.25

片岡 真実

サ・サ・バサック(SA SA BASSAC)は、カンボジアの現代アートや文化を対象に、展覧会企画・制作、販売、アーカイヴ、資料提供などを行う組織です。カンボジアの現代アーティストが海外で知られるためのゲートキーパーのひとつです。インターナショナルなインスティテューション、レジデンス、美術館、ギャラリーなどともパートナーシップを結び、ネットワークを拡大しています。同じ年にアーティスト主導の非営利組織として発足したサ・サ・アートプロジェクトは、2007年に構成されたアーティスト・コレクティヴ、スティーヴ・セラパック(Stiev Selapak、現在のメンバー:クヴァイ・サムナン(Khvay Samnang)、 リム・ソクチャンリナ(Lim Sokchanlina)、 リノ・ヴース)が進めているプロジェクト。サ・サ・バサックは、スティーヴ・セラパックが、キュレーターのエリン・グリーソン(Erin Gleeson)と共同で2011年に立ち上げました。サ・サ・バサックでは、カンボジアを巡るさまざまな政治的、歴史的な課題と向き合っており、難民問題、アメリカとカンボジアの問題なども議論しています。例えば、アメリカに難民として渡ったカンボジア人の多くは犯罪に巻き込まれても、警察に助けてもらえないことがあったそうです。こうしたアメリカ国内のストーリーを追ったアーティストや、アメリカ系カンボジア人、カンボジア系アメリカ人のアーティストなどを招聘しています。

リム・ソクチャンリナ
(1987-)

2016.01.25

近藤 健一

母国カンボジアの社会的、政治的、経済的変化を主題に、写真を中心にヴィデオやインスタレーション作品も制作。アーティスト・コレクティヴ、スティーヴ・セラパックの一員で、商業写真界でも活動を行っています。今年のアート・ステージ・シンガポール(Art Stage Singapore)の「東南アジア・フォーラム」セクションでも展示された写真シリーズ〈国道5号線〉(National Road Number 5, 2015)は、プノンペンから北東にタイ国境まで伸びる全長約400キロの国道沿いに見られる、切断された建築物を写真で記録するプロジェクト。この国道は、日本などからの開発援助により改修が進められていますが、作家によれば、道路の拡張により沿道の邸宅の所有者が自邸を道の拡張分だけ切り落とすことがあり、その中で生活を続ける人もいるといいます。

クヴァイ・サムナン(1982-)

2015.01.25

近藤 健一

写真、ヴィデオ、インスタレーション、立体作品、パフォーマンスなどさまざまな手法により、社会的メッセージを帯びた作品を制作。2010-2011年にトーキョーワンダーサイトのクリエーター・イン・レジデンスプログラムに参加し、東京で滞在制作を行うなど、日本との関わりも深いです。《私の砂を楽しんで:シンガポールでのサムナンの牛のタクシー》(Enjoy My Sand: Samnang Cow Taxi in Singapore、2013-15)は、作家本人が人間の髪の毛で作られた牛の角を頭につけ、シンガポールの浜辺で見知らぬ人々を背負ってタクシーとして運搬する、というパフォーマンスを写真と映像で記録したものです。カンボジアから輸出された砂がシンガポールの埋立地拡大に使用されている、という現実をユーモラスに問いかけるものです。

ソピアップ・ピッチ(1971-)

2016.01.26

米田 尚輝

プノンペンを基盤に活動するアーティスト。第4回福岡アジア美術トリエンナーレ(2009)、第6回アジア・パシフィック・トリエンナーレ(The 6th Asia Pacific Triennale of Contemporary Art、2009-10)、シンガポール・ビエンナーレ2011(Singapore Biennale, 2011)、ドクメンタ13(documenta13、2012)などの多くの国際展に参加しており、カンボジアでもっとも国際的に活躍している作家のひとりです。カンボジアで生まれたソピアプ・ピッチ(Sopheap Pich)は、クメール・ルージュから逃れるため13歳のとき家族とともにアメリカへ移住し、最終的には1999年にシカゴ美術館附属美術大学(The School of the Art Institute of Chicago)でMFAを取得しています。その後、プノンペンの都市の発展とそれにともなって活性化された人々の生活に惹かれ、2002年にカンボジアへ帰国します。2005年にこれまで取り組んできた絵画の制作を止め、竹や籐といったカンボジアでは身近にある素材を用いて、伝統的な織り技術を駆使した立体作品を制作し始めます。今ではこの竹や籐による生物形態的(バイオモルフィック)な構造物は、彼の代表的なシリーズとなっています。その制作プロセスにおいて、下書きとしてのドローイングは行わず、素材がもつ有機的形態を尊重しつつ、手を動かしながら形態を変形させていくと語ってくれました。

エイミー・リー・サンフォード
(1972-)

2016.01.26

米田 尚輝

プノンペンを基盤に、ドローイング、彫刻、インスタレーション、パファーマンスなど多様なジャンルで活動するアーティスト。プノンペンで生まれたエイミー・リー・サンフォード(Amy Lee Sanford)は1974年、クメール・ルージュから逃れるため、カンボジア人の父親を残したまま、アメリカ人の母親とともにアメリカへ移住します。大学では美術(ヴィジュアルアート)を専攻しながら、その傍らで生物学とエンジニアリングも学んでいました。2009年にカンボジアに戻り、作家活動を続けています。2012年にメタハウス(Meta House)で行われたパフォーマンス《Full Circle》は、自分を囲い込むようにして床に並べられた40個の壷の中心に座り込み、半日ずつ6日間にわたって、壷を落としては修復するという行為を繰り返しました。この行為は、戦争、トラウマ、喪失、移動、罪、といった諸概念を暗示すると言います。こうした諸概念は彼女の作品にとって重要で、例えば、カンボジアの父がアメリカの父に何年にもわたって100通以上送っていた手紙の断片を、巨大なジグソーパズルのように再構築した《Cascade》(2015)にも見て取れます。

カンボジア調査報告

ヴェラ・メイ

カンボジアへのアプローチの仕方に違和感を覚えたのは、私がクメール人のハーフだからでしょう。このことは、自分がある場所を代表するという責任を感じるとき常に負担となり、その困難さがさらにはっきりとします。私がクメール語を話せず、クメール・ルージュ政権によって移住を余儀なくされた何千人ものディスアポラのひとりであるからです。多くのカンボジア難民は、隣国のベトナム人と同様に(アメリカ戦争〔ベトナム戦争のベトナム側の呼称〕によって引き起こされたベトナム国内の紛争のため)世界中に散らばっています。そのため、私たちディアスポラの経験は、祖国に残り耐え忍んだ人々とは大きく異なっています。これらの知識の重大な局面は、カンボジアで再構築されてきたさまざまな歴史の限られた教育によってただ高められるだけであり、私たちは調査で出会った多くのアーティストから一定の見識を得ました。このことはまた、多くの独立したイニシアティヴを通じて私たちが経験した、幅広く自然発生的な、後見人を必要としない知識の伝承を通じて明らかになりました。

カンボジアのアートシーンにおける著名なアーティストの多くは、ワークショップやセミナーを開催して、指導者としての役割を積極的に果たしています。アーティストや作家、ダンサーと首都プノンペン中心部で働く公務員が一緒に住んでいるホワイト・ビルディングのコレクティヴやアーカイヴを訪問したとき、私たちはアーティストのクヴァイ・サムナンが、学生たちを指導する上映の様子を耳にしました。サ・サ・アートプロジェクトのディレクターでもあるアーティストのリノ・ヴースは、(公式の課程の代わりとなる)美術史に関するものを含んでいたり、すべての内容をクメール語で行うよう細心の注意を払っていたりするワークショップやセミナーを積極的に行っています。翻訳された美術資料が少ないことを考えれば、これは極めて前向きな活動です。

もちろん、この知識の伝承のレガシー(遺産)には前例があり、私たちがさまざまなクメール美術について詳細に研究された資料と出会ったレユム・インスティチュート(Reyum Institute)のようなイニシアティヴを通じて行われてきました。現代アートの展覧会を奨励した初期の例のうちのいくつかは、このインスティチュートを通じて行われたことを私たちは学びました。このインスティチュートが現地の文脈において重要な調査を展開する方法は、タン・ソック(Than Sok)やリノ・ヴースらのようなアーティストによるコンセプチュアルな実践や資料調査を通じてはっきりと確認できました。ボパナ視聴覚リソースセンターも同様に積極的に若手アーティストを育成しており、映画や写真を中心としたメディアの力強さを、ソク・チャンラド(Sok Chanrado)やリム・ソクチャンリナといったアーティストとのインタビューから窺えたことは非常に印象的でした。このセンターの創設者であるリティ・パン(Rithy Pahn)による次世代のアーティストを育成しようする活動は、文化的記録を保存するというアーカイヴの使命に沿ったものです。共に調査をした日本のキュレーターたちもまた、日本軍兵士が自転車に乗ってアンコールワットを通り過ぎるという、戦前のカンボジアにおける日本軍の駐留を示す映像を施設内で発見して喜んでいました。

すでに活況を示しているこの活動の勢いは、興味深く厳格なグループ展のみならず、個展や散発的なプラットフォームなどのプログラムを実施したサ・サ・バサックのアーティストらのプロ意識や洗練さによってさらに裏付けられました。私たちはまた、ジャワ・アート・プログラムのディレクターであるダナ・ラングロワ(Dana Langlois)から、ボートプロジェクト(the Boat Project)について話を聞きました。彼女は、特に女性や、私がしばしば耳にしてきた「送還者(本国送還者)」について積極的にクメール語で新作を発表しています。

最終日には、縦横無尽にアートシーンで活躍する建築家であり、プノンペンの素晴らしい建築遺産の保護・研究・育成に心血を注ぐペン・スレイパニャ(Pen Sreypagna)による建築物見学ツアーを行いました。サ・サ・バサックもまた、ヴァン・モリヴァン(Vann Molyvann)サマースクールを主催し、スレイパニャが生徒たちを主導して現代建築家であるヴァン・モリヴァンの縮尺模型を制作しているのを見ました。

カンボジアについての従来のイメージはクメール・ルージュとは切っても切れませんが、私たちの調査ではこの時代以前の「黄金時代」、すなわち空想的な楽観主義の時代と豊かな芸術へのひたむきさを垣間見ることができました。美しく現代的な建築物や豊かな映像作品、人々が散策する大通りのロマン主義、住民によって活気づいた都市は情熱的であり、生き生きとしています。それこそがプノンペンでした。

Special Thanks

荒井和美
エイミー・リー・サンフォード | Amy Lee Sanford
クヴァイ・サムナン | Khvay Samnang
スヴァイ・サレス | Svay Sareth
ソック・チャンラド | Sok Chanrado
ソピアップ・ピッチ | Sopheap Pich
タン・ソック | Than Sok

チェア・ソピアップ | Chea Sopheap
チュム・チャンヴェスナ | Chum Chanveasna
デイナ・ラングロア | Dana Langlois
ニエック・ソッパル | Neak Sophal
ペン・セレイパンニャ | Pen Sereypagna
ラック・ラッタナ | Lach Ratana
リム・ソクチャンリナ | Lim Sokchanlina
リノ・ヴース | Lyno Vuth

Research